Royal Code Resurrected

この曲はパッと聴き、やれAgainstだとかResistだとか言ってるんで、如何にもメタルでして、単にそういう曲だと思ってもらっても構わないんですが、そうすると中間部分のSEが何だこれ???になってしまいますので、歌詞の背景を説明したいと思います。

このSEは所謂、太平洋戦争における真珠湾攻撃の成功を伝えたラジオの音声です。この曲では、戦前の日本が戦争に至った背景を表現しようと思いました。

別に終戦記念日が近いからという訳ではないのですが、複雑に絡み合いながら突入していったあの戦争の中の一本の糸について思うところを述べたいと思います。

「近衛上奏文」という有名な文章があります。

これは敗色濃厚になってきた1945年2月、太平洋戦争の収束を願った昭和天皇が重臣達に意見を求めた際、1937年6月、1940年7月、1941年1月と、三度に渡り首相を務めた近衛文麿が提出した物です。

内容について詳述は避けますが、平たく言うと「全部、共産主義者が悪い」という内容です。

太平洋戦争というと日米開戦時の首相・東條英機がどうしても槍玉に上げられますが、別に東條さんがいきなり対米戦争をおっぱじめた訳ではなく、開戦に至るまでに失政に失政を積み重ねた挙句に引き返せなくなり開戦已む無しとなりました。そして、その失政の殆どは近衛内閣の時のに起こったと言っても過言ではありません。
以下に、近衛内閣で起こった主な出来事を時系列的に列挙してみます。

《第一次近衛内閣》
1937年 7月 日中戦争勃発
10月 企画院設立
11月 日独伊防共協定
1938年 1月 第一次近衛声明(国民政府を相手とせず)
4月 国家総動員法公布
《第二~三次近衛内閣》
1940年 7月 全政党解散→新体制運動開始
9月 日独伊三国軍事同盟締結
10月 大政翼賛会発足
1941年 4月 日ソ中立条約締結
7月 南部仏印進行→アメリカの対日石油前面輸出禁止
9月 日米交渉ほぼ決裂。
10月 「もう無理」と政権投げ出し→内閣総辞職
12月 日米開戦。

これは言い訳できませんね。

よって、上記の「近衛上奏文」は自分のダメさ加減を共産主義者に責任転化しただけのどうしようもない上奏文だとの見方が一般的で、事実、昭和天皇も「これはちょっと無理だな」と一蹴しています。

ただ、近衛文麿の「全部、共産主義者が悪い」という言い分も理由の無い事ではないのです。

1941~42年にかけて、ゾルゲ事件という映画にもなった有名な事件が起こりました。

日本で諜報活動を行っていたソ連・コミンテルンのスパイ、リヒャルト・ゾルゲが逮捕された事件で、首謀者として逮捕された人物の中には近衛文麿のブレーン集団「昭和研究会」の一員だった尾崎秀美も居ました。

尾崎秀美は日中戦争後、中国での不拡大方針を唱える政府や軍部の思惑を他所に、近衛のブレーンとして強烈に日中戦争を推進。ドイツを仲介にしたトラウトマン工作を妨害し、「国民政府を相手とせず」という第一次近衛声明を出させたり、独自に国民党の汪兆銘に接近し、陸軍が独自に行っていた和平工作をかく乱するなどしたため、まとまるものもまとまらず日中戦争は次第に泥沼の様相を呈してゆきます。

また政府内で言論を二分していた南進論と北進論の様子をゾルゲを通じつぶさにコミンテルンに報告し、南進論が取られると決まるや(1941年7月の南部仏印進行です)、これを知ったソ連は6月に始まっていた独ソ戦線に対日戦線用に配備していた極東の精鋭部隊を独ソ戦に投入。日本の同盟国だったドイツはこの増援が原因でソ連に敗北したと言われています。

共産主義者の思想の中に「革命的祖国敗北主義」という考え方があります。
簡単に言うと、社会変革の為にわざと国を敗北に導くという発想で、ドイツ革命やロシア革命といった歴史的経緯に基づいている訳ですが、まあ尾崎もこうした思想に忠実に行動した訳です。

尾崎はゾルゲに連座して処刑されますが、尾崎の本性を知った近衛は天皇に対し己が不明を愧じたと釈明しています。しかし、そもそもこの尾崎が属したシンクタンク・昭和研究会やその主催者であった後藤隆之助。この人は近衛の高校~大学以来の同窓です。また、尾崎の親友で第一次近衛内閣で内閣書記官に抜擢された風見章、元老・西園寺公望の孫で尾崎等と共に汪兆銘に接近した西園寺公一、第一次近衛内閣以来の付き合いである有馬頼寧等々、近衛の周辺に居た人物というのは、みな共産主義や社会主義に非常に近い思想を持った人々でした。何より、近衛自身が学生時代にマルクス主義の講義で当時とても有名だった京都帝国大学の河上肇の講義を受け、共産主義、社会主義思想に深い感銘を受けています。

こうした人々が中心となり、大政翼賛会の成立、統制経済・計画経済配給制導入等々、後に「全体主義」、「独裁体制」と批判される「新体制運動」は推進されて行きます。

こうした政策を推進した官僚達に木戸幸一や岸信介といった人々が居ましたが、彼等はいわゆる革新派と呼ばれました。

同じように革新派と呼ばれた人々は政治家や官僚だけでなく、軍部の中にも数多く存在しました。

軍部と共産主義。

いかにも水が合わないというか、むしろ我々が昔から教科書とかで教わっていた戦前のイメージは、治安維持法に代表されるような明治以来の近代天皇制とマッチしないそうした活動家への政府や軍部による不当な弾圧というものですです。

しかし、例えば、二.二六事件を引き起こした磯部浅一や村中孝次、栗原安秀といった人々は「革新派青年将校」と呼ばれていました。

よく、二.二六事件は陸軍内の二大派閥であった皇道派と統制派が対立し、急進派だった皇道派が国家革新を目指して無計画に暴発したしたみたいな説明のされ方をしますが、どうもこの説明というのは事の本質を捉えていない気がするんですよね。

何故なら、二.二六事件の時に初めて皇道派が暴発した訳ではないからです。

1931年には統制派が三月事件でクーデター未遂を起こしており、同年10月には皇道派が似たようなクーデター未遂事件である十月事件を起こしています。そして、裏でそのどちらにも関わっていた日蓮宗の僧侶・井上日召は、両事件が未遂に終わったことに業を煮やし、翌年の1932年に血盟団事件を起こし元蔵相の井上準之助と三井財閥の理事だった団琢磨を暗殺します。井上等実行犯は無期懲役の実刑が下りますが、彼等の想いはさらにエスカレートし、五.一五事件での犬養首相暗殺として結実します。

1934年11月には、後に二.二六事件を起こす磯部や村中等がクーデターを計画しているという密告から起きた陸軍士官学校事件により、皇道派の巨頭だった真崎甚三郎は教育総監の職を更迭されました。
統制派は三月事件以降暴力革命路線を捨て、全体主義的な統制経済による総力戦体制を構築する高度国防国家樹立を構想していましたが、皇道派はこの陸軍士官学校事件を統制派の陰謀であると解釈し、1935年8月、派閥の領袖だった永田鉄山軍務局長が皇道派の相沢三郎に暗殺される相沢事件を引き起こします。そして翌年、1936年2月に「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げた二.二六事件が起こるのです。

ここまで長々と統制派と皇道派の抗争を書いて来ました。

上記したような内容は学校でも習いますが、大体、「軍部の台頭」みたいな表現の仕方をします。こうした軍部の暴走が後の太平洋戦争へと繋がったと。確かにそうなんですが、では、彼等が国家の何を革新しようとしていたのか?そして何故、対立していたのかが全く解らないのです。

そこで彼等の革新の動機と思想的な背景を見てみたいと思います。

まず、三月事件以降の流れを見てみますと、統制派、皇道派、またどちらにも関わっていた血盟団や社会民衆党といった人々にとっての共通の敵が存在することが解ります。それは所謂、資本主義を推進する政治家や財閥、資本家といった存在でして、それは1929年に起こった世界恐慌が直接的な動機となっています。

世界恐慌以降、同時期の金解禁や東北地方の冷害・津波の影響もあり、全国的に人々の生活は疲弊し農村では娘の身売りなどが社会問題になりました。

そんな状況にも関わらず、私利私欲の限りを尽くす資本家とそれに与する政治家共の癒着は腐敗の一途を辿る一方である、と彼等の目には映っていました。そこで、このような状況を革新し、国家改造を成し遂げなければならない・・・これが彼等所謂革新派と呼ばれた所以です。

皇道派は「資本家とそれに与する政治家=君側の奸を討ち果たし、天皇親政を復活させる昭和維新」の為に直接行動に出ました。統制派は途中から直接行動を捨て、合法的な手続きで、資本主義体制から全体主義的な統制経済体制による社会の変革を目指す方向にシフトしましたが、いずれにせよ、手段が違うだけで目的はあまり変わりません。そもそも、元々は統制派も皇道派も陸軍内の同一の改革派グループとして誕生しました。それは1921年に永田鉄山や小畑敏四郎等によって交わされたバーデン=バーデンの密約です。その後、世界恐慌を経て考え方の相違から、それぞれの派閥に分かれたと考えるのが正しいかもしれません。

戦前、田中義一首相の秘書官を務め、戦後には吉田内閣で法務総裁を務めた殖田俊吉という人が、戦後、統制派と革新派について、以下のように述べています。

「二・二六に蹶起した若い将校達は、所謂皇道派であつたかのように言われて居るが、実は皇道派でも無く統制派でも無い、どちらかと云えば気分は皇道派に近かつたかも判らないが、抱いている考え方は統制派に近いものであつた。唯統制派は何時でも幕僚を主流とする団体であり、二・二六の若い人達は第一線の即ち幕僚でない将校であつた。皇道派というものは、言われている程有力なものではなかつたと思うが、これも革新派ではあつた。その意味において通ずるものがあるけれども、事実は革新派の中の最もプリミテイブな復古主義者であつた。尤も全部がそうだと云うのではなく、皇道派と言われる人達の中には非常にリベラルな進歩的な人達もあつた。これは表現の仕方は色々あつただろうが、一面リベラリストでありながら、然も最も古い陸軍の伝統を多分に持ち続けて居た人達、好い意味の大陸論者であつた。それで幹部派即ち統制派が大川周明に近かつたとするならば、二・二六の若い将校達は、北一輝に非常に近かつた。或人は是を北と大川の喧嘩だと言つたくらいだ。」:『文芸春秋』第27巻第12号、文芸春秋新社、1949(昭和24)年12月

自分には「要するにどっちも大して変わらない」と読めます。

しかし、国家改造を断行するために資本家を斃す・・・何か聞いたことあるスローガンですよね。そう。彼ら革新派将校の思想はまさに共産主義者そのものと言っていいものなのです。ここで軍人と共産主義が同居することとなります。

事実、統制派は多くの共産主義者をブレーンとして迎え、全体主義的統制国家を目指すのですが、ここまでで読む人が読んだたら、「だが、ちょっと待ってほしい」と朝日新聞的なつっこみを入れることでしょう。何故なら、共産主義は天皇制を認めませんが、統制派にとっても皇道派にとっても天皇という存在は神聖にして犯すべからざる存在です。それが何故このような思想を持つに至ったのでしょうか。

ここまで何度も共産主義と書いてきましたが、実は彼等の思想は国家社会主義と呼ばれる、共産主義似て非なる思想です。

共産主義と国家社会主義。

根っこはどちらも同じマルクス主義なんですが、そもそも共産主義というのは「社会は物によって構成される。資本主義はその最たる形態であるが、持たざる者は持つ者との差=階級を打ち倒すべく闘争を始める。そして最終的に持つ者や国家は倒され資本主義は崩壊し、その結果、皆が平等に物を所有するようになる」というものですが、国家社会主義はこれを国家の為に実現しようというものです。故に国家が経済を統制し物資を平等に配給するという全体主義的なシステムになります。

本来、資本主義の自然崩壊を待たなければならないという過程をレーニンは無理矢理すっ飛ばして国家を作ってしまったために、結果的にマルクスの主張は成立せず、国家社会主義とほぼ同じような形になってしまいました。

三月事件等一連の事件に協力した社会民衆党の赤松克麿という人は元々共産党員でしたが、途中でマルクス批判を行い、国家社会主義者に転向しています。こういう人の動機はある意味とても解り易いので、こうした人が革新派将校に影響を与えたとはあまり聞いたことがありません。利害が一致した故の共闘だったのだと思います。

殖田俊吉の回想にも出てきましたが、革新派将校が私淑した思想家は北一輝や大川周明といった国家社会主義者です。

北一輝と言えば、学校で歴史を勉強した際は二.二六事件の首謀者に影響を与えた狂信的国粋主義者みたいな印象しかなかったんですが、彼の代表的著書で革新派将校たちのバイブルとなった「日本改造法案大綱」には、言論の自由、基本的人権尊重、農地改革、普通選挙(1923年に書かれてるので普通選挙法の前です)、男女平等・男女政治参画社会の実現、私有財産への一定の制限(累進課税の強化)、財閥解体等々の実現を謳っており、天皇が国民を率いて資本家を排除すべきといったような事や人種差別の廃絶といったような事も謳われています。

一部急進的ではありますが、その民主的な内容は今こそ再評価されてしかるべきと思います。
しかし、これが全体主義的な国家を標榜する国家社会主義者の掲げた素案なのか?と首を傾げたくなります。

日本の国家社会主義と言えば、日本にマルクスを紹介した後にそれを独自に発展させた思想を展開した高畠素之や先の赤松克麿が浮かぶのですが、この北一輝や大川周明といった人々の国家社会主義というのは所謂、マルクス主義由来の輸入物の国家社会主義とは全く異なる源流を持っているように思えてなりません。

こうした独特の民主主義と社会主義が混在した発想の源流には国学にあるのではないのかと思うのです。

国学と言うと、むしろ悪名高き国家神道の源流じゃないかと思われるかもしれません。
実際、昭和維新とか尊皇とか言っているので、そういう意味ではそうなんでしょう。ただ、彼等が訴えていた実に民主的な訴えというのも国学由来なのではないかと思うのです。

国学と一口に言っても本居宣長以降様々な学派があるので、一概には言えませんが、やはり豪農層の教養として広く浸透した平田派国学の影響は大きいと思います。

天保年間である1841年、土佐国の土佐・吾川・長岡郡の庄屋達の間で交わされた「天保庄屋同盟」という約定があります。

「万葉集古義」で知られる土佐を代表する国学者・鹿持雅澄に師事した細木庵常という庄屋の指導によるものですが、その内容のインパクト故に、司馬遼太郎などもしばしば著作中で言及していることでよく知られています。その内容とは、

農民、百姓は太古より天皇の「おおみたから=大御宝」である。そして、その百姓をあずかる庄屋という役職はまさに天皇より直に与えられた神聖な職であり、そういう意味では同じように天皇に役職を賜る将軍と何ら立場は変わらない。将軍やその陪臣の大名づれに何を偉そうにされる理由があるのか。もし上士が理不尽な仕打ちを仕掛けてきた場合は討ち果たしても良い、と宣言したものす。

坂本竜馬関係の本を読めば必ず出てくる井口村刃傷事件というのがありますが、これは上士と呼ばれた土佐国の大名・山内家の家臣が、下士と呼ばれた下級の侍を無礼討ちにした事件です。

山内家は関ヶ原の戦いで徳川家に与したことで土佐国を与えられましたが、その際、それ以前に土佐国を領していた旧長宗我部家の家臣達に対して壮絶な弾圧を加え、旧長宗我部家の家臣達は足軽のような下級侍に甘んじたり、帰農し庄屋になったりしましたが、上士は下士や農民などを殺傷しても咎められないというような激しい差別があったのです。

こうした事情が天保庄屋同盟結成の背景となりました。そして、鹿持雅澄の甥・武市半平太や庄屋層出身の中岡慎太郎や吉村虎太郎等により土佐勤王党が結成され、土佐藩としての尊王攘夷運動が展開されます。さらに、この思想的背景は明治後に土佐を自由民権運動の中心地たらしめることとなります。

国学の大成者である本居宣長は、著書「玉くしげ」の中でこんな感じのことを述べています。

中国等の外来思想が入る前の日本は、神が先例に倣い物事を決め、それでも解らないことは占いで物事を決めたが、臣下万民は皆一様に心が素直で正しかったので神の御心を自分のこととして疑わず、朝廷を敬いその掟を守り、小賢しいことを考えたりしなかったので上も下も心が一つになり天下は見事に治まっていた。
天下の国も民も本来は神の物である。徳川将軍家も大名も神からそれを委任されているに過ぎない。だから将軍家も大名も民を大切にしなければならないし、民も将軍家や大名の言うことを良く聞かなければならない。上から下まで神の心は全てに存在している。人間の知恵などたかが知れている。だから小賢しいことを考えずただ素直な心で神に畏敬の念を払い、日常の成すべき事を黙々と成す事で天下は見事に治まってゆくのだ。

「玉くしげ」は紀州藩主・徳川治貞の求めに応じて書かれたものなので、徳川幕藩体制を否定しないように大層気を遣いながら書かれており、少々解りにくいのですが、これは神~天皇~将軍~民は皆一体であるということを説いた思想です。これが神の前では皆が平等であるという国学独特の一君万民思想の源流となるのです。

本居宣長の死後、子の春庭に弟子入りし、宣長の直弟子を自認していた平田篤胤は、国学の四大人の一人にも数えられますが、平田という人は、学者然としていた本居宣長とは毛色が違い、雑誌の編集者に近いような印象を受けます。

実にエネルギッシュかつエキセントリックであり、キリスト教から仙界まで博識を活かして膨大な書物を著し、時にその突拍子もない世界観を平易な内容で庶民層にアピールしました。

ただ、こうした活動は実直な学者から見ると実に俗物的であり、丸山真男などは平田の事を浅薄で見るべき物は何一つ無いと切り捨てています。まあ思想的スタンスの違いが最大の原因だと思いますが。

平田は本居宣長の思想を推し進め「御国の御民」という考え方を展開します。これは、日本は神の国であるから日本人は皆神の子孫だというものです。

本居宣長は自身でも言っていますが、彼の国学思想は数百~数千年単位で俯瞰して初めてその正しさが認められる物なので、近視眼的に捉えて、それを行動に移してしまうと実に危険な思想になってしまいます。それ故宣長は、余計な事はせず、流れに身を任せなさいと言っています。それを平田と四千人に及ぶ弟子達が急進的に「解り易く」庶民層に流布させたために、先の天保庄屋同盟のように様々なルサンチマンと結び付き、明治維新~自由民権運動と続く巨大なうねりを生み出す事となるのです。

しかし、漠然とした俯瞰的思想をそれに取り憑かれた急進的な推進者が様々な矛盾を抱えながら突き進むことで時代という奔流が急展開してゆく様は、マルクスの共産主義をレーニンが無理矢理に国家の体制としてしまったのに極めて似ているのではないかと思うんですがどうなんでしょうね。

本居が活躍した時代というのは、所謂、田沼時代と呼ばれた時代で貨幣経済が爛熟期に入った時代で、ここでも持つ者と持たざる者がの格差が社会問題となっていました。

本居は伊勢・松阪の商家に生まれましたが、商人の才覚無しと言われて医者になり、後に国学の大成者となりましたが、平田も秋田・久保田藩の武士の子として生まれながら、武士としての才覚無しとされ、20歳の頃に江戸に出奔したという過去を持っています。国学というのはその発生からしてルサンチマンだったのではないでしょうか。それ故、いつの時代も社会的弱者を吸い寄せ、酩酊させる魔法のような要素を多分に含んでいるように思います。そうした所も共産主義と非常に似ていると思います。現在では左右両極端に振れている思想ですが、お互いに振れ過ぎて反対側でぶつかってしまった。イデオロギーというのはそんなものなのかもしれません。しかし、西洋人の思想というのは常に神と対峙し神を克服することを永遠のテーマとしており、共産主義の階級闘争などはその典型だと思いますが、全ては神と一体である、神に身を委ねなさいという共産主義と対極に位置する国学とルサンチマンという点において通底している所がとても面白いと思います。そう言えば、村中も磯部もエリート中のエリートである統制派に粛清された非主流派の面々でした。

周知の通り、国学や別系統で発生した水戸学による尊皇・勤皇精神が明治維新の原動力となるのですが、豪農や庶民層に浸透した国学の思想はそのまま自由民権運動に繋がって行きます。

国学と自由民権運動というのは従来あまり関連づけて解説されることはありませんが、国学の一君万民思想という素養がバックグラウンドとして無ければ、開国してたかだか10数年程度で全国に自由民権運動が広がったりするものでしょうか?無論、国学だけでなく、堯舜の治世のような漢学の素養も影響していると思います。思うのは、洋学の思想に触れた知識人がいきなり「これだ!」と思ったというより、国学や漢学の思想から、「そうであるに違いない」としていたのが洋学の思想に触れるにつけ「やっぱりそうだった!」と確信したのだということです。

さらに、1880年に憲法の制定が決まると、全国から実に民主的な私擬憲法草案が様々に出てくるのです。高知の植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」はよく知られていますが、その他にも東北地方からは宇加地新八の「建言議院創立之議」や小田為綱の「憲法草稿評林」、武蔵野からは千葉卓三郎の「五日市憲法」(千葉は仙台出身ですが)、九州からは向陽社(後の玄洋社)が母体となっている筑前共愛公衆会から「大日本国憲法大略見込書」などが出されます。

大川周明は「尊皇と民選議院とは、表面一致せざるが如くにして、実は同一精神に出でて居る」との言葉を残していますが、どの私擬憲法も天皇大権を認めています。ルソーの「社会契約論」を「民約約解」として翻訳し、自由民権運動に大きな影響を与えた中江兆民も天皇制と民権は矛盾しないとしています。後に大逆事件で処刑される中江の弟子・幸徳秋水も天皇制は否定していませんでした。

ただ、江戸時代から時代も下って来ており西洋の様々な思想なども入って来ていることから、例えば、小田為綱の「憲法草稿評林」などは天皇大権を認めながら、もし天皇が暴威を以って民を苦しめるようなことがあった場合は、国民投票によって天皇をリコールしても良いという条項がある等かなり急進的です。

いずれにせよ大川の言葉が全てではないでしょうか。この当時、尊皇と民権は同一の精神から生み出されていたのです。この源流は間違いなく国学にあると言えます。

で、国学の一君万民思想というのは明治以降に現れた大アジア主義にも影響を与えていると思うんですね。

大アジア主義とは後の大東亜共栄圏の源流となった思想ですが、アジア蔑視の最たる物としてよく批判されます。やっぱ国学は右翼思想だ、どこが民主的だ?となりそうなんですが、ただ、同じような構想として鳩山由紀夫の東アジア共同体があったりしますが、こちらは何故か余り叩かれません。いずれにせよ左右とも同じような構想に行き着くのは興味深いですね。

大アジア主義の担い手としては戦前右翼の大物である玄洋社の頭山満や内田良平、また玄洋社とも連携した樽井藤吉や宮崎滔天等が有名ですが、いずれも国学~自由民権運動を通じ、朝鮮や中国の革命を支援し、東アジアからの西洋勢力の駆逐を目指しました。大アジア主義の本来の趣旨はここにあります。決して日本が東アジアを支配化に置こうなどという思想ではありませんでした。

国学において中国の“道”の思想はボロカス言われてますし、また古事記を史実であると絶対視する立場であることから、朝鮮に至っては神功皇后の三韓征伐の逸話もあり一段下に見られていました。
本居も平田も皇室が途切れることなく続いている事を論拠に、日本こそ絶対的に正しき道理を持った神の国であるので、中国も朝鮮も天竺も世界は皆、天照大御神の照らし出す恩恵に浴するべきだと説きます。平田に至っては世界の国々の源は神の国・日本であるとまで言い切っており、後の世に国粋主義と断罪される思想が前提としてあります。ただ、当時から上田秋成や山方蟠桃は「そんなん日本だけの話やろ。他の国関係無いやん。古事記みたいな伝説なんかどこの国にもあるで」と半ば呆れ気味に批判しています。

いずれにせよ、こうした考え方がアジア蔑視と言われる由来なのだと思うのですが、上記のいわゆる大陸浪人達は「西洋勢力が迫り風雲急を告げるこの時こそ、日本が中国や朝鮮を導いて東アジアを救うのだ」といささか独善的な考え方で在野の革命分子を支援するのですが、良くも悪くも純粋が故に、時に暴力的な手段にも出ており、それが後の閔妃殺害事件や日韓併合に繋がって行きます。ただ、内田良平などは日韓は併合ではなく対等の国家同士として合邦とすべきという構想で政府に協力していたのが結果的に一方的な併呑となってしまった事に怒り、独自に朝鮮の再独立させる運動を展開しました。

この大アジア主義は国学~自由民権運動とは別の思想的潮流も大きく影響しています。

江戸中期、特に工藤平助の「赤蝦夷風説考」に基づき田沼意次が大規模な蝦夷地調査を行って以降、日本の知識人層の間では、ロシアを仮想敵国とする風潮が強まり、これは日露戦争で日本が勝利するまで続きました。

さらに西洋に対する脅威が決定的になったのが阿片戦争です。良きにつけ悪しきにつけ日本の上に君臨してきた強大な中国様が蛮人と軽んじていた西洋人に瞬く間に叩きのめされたのです。現代で言うならアメリカが宇宙人に瞬殺されるようなもんですね。そこで、日本はどうすべきなのか?という共通命題が江戸末期の思想界を支配します。

こうした中、「西洋の技術を学びつつ、東アジアと連携し西洋勢力と対峙する」という主張を展開したのが、西郷隆盛や大久保利通の主君であり、心の師とも言うべき島津斉彬でした

薩摩藩の第11代藩主だった島津斉彬は幼い頃より祖父・島津重豪の薫陶を受け洋学に強い関心を持ち、ジョン万次郎を保護してアメリカの事情をヒアリングしたり、自らカメラで写真を撮ったり、反射炉・溶鉱炉の建設したり、ガラス製造工場を造ったり、蒸気機関の国産化を成功させ日本初の蒸気船を製造したりしました。反面、藩財政の圧迫を招いたため、少なからず反対勢力も多かったようです。斉彬の死後も、薩英戦争後にイギリスと急接近し留学生を派遣。西洋技術の積極進取に努め、1867年のパリ万国博覧会には幕府とは別に薩摩琉球政府として出展するなどしてゆきます。

こうした斉彬の志を継いだ西郷と大久保ですが、1871年に岩倉遣欧使節団の一員として大久保が訪欧した最中に征韓論が起こり、身一つで乗り込み朝鮮を説得するとした西郷隆盛は、帰邦した大久保利通に「時期尚早である」と反対され、それならと下野してしまうのです。こうして後の西南戦争に繋がって行くのです。

征韓論に至る経緯は大層長くなってしまうので割愛しますが、いずれにせよ、斉彬の後継者2人がその思想を同時期に別々に行わざるを得なくなり、そして反目し合う間柄になってしまったのは何という歴史の皮肉なんでしょうか。

なお、征韓論の主導者が自由民権運動の中心人物であった板垣退助であるというのも国学という切り口から見ると面白いですね。ただ、この人は上士出身ですし、この人や後藤象二郎の明治後の活動って薩長藩閥政府に対するカウンターとしての土佐藩の位相を上げるための政治運動にしか見えなくて、どこまで本気で考えていたのかよく解りません。

実は島津斉彬の後継者を自負していたと思われる人物がもう一人居ます。

名を近衛篤麿と言います。

そうあの近衛文麿の父です。
ようやくここまで戻ってきました。

何故、この近衛文麿の父が斉彬の後継者なのか?

実は篤麿は斉彬の娘である貞姫の長男なのです。

近衛篤麿はその名の通り、五摂家の筆頭で公家の中でも最高の格式を持つ近衛家の当主として生まれた訳ですが、明治というこれまでの江戸期とまるで異なる開化期を迎えるにあたり、公家の筆頭格の当主として天皇制を支えて行くために何を為すべきか?という事を真剣に考え、そのヒントをヨーロッパの貴族社会に求めるべく、当時の日本が国家体制のお手本とした帝政ドイツに留学します。そこで、財産や権力など社会的地位を持った階層に属する人々はインフラの整備や貧困層への支援といった社会への発展に貢献しなくてはならないという責任が伴うというヨーロッパの伝統的な思想を学びます。これをノブレス・オブリージュと言います。

帰国した篤麿は、このノブレス・オブリージュ思想を日本に根付かせる為に、貴族の子弟を世界で通用するような人材とするべく院長として学習院を整備したりしました。

また、剛毅な人柄で知られた篤麿は上記のアジア主義を以って日本の外交政策を側面から支援して行こうと考えます。

明治政府において最初に大アジア主義的な外交政策を展開したのは誰あろう大久保利通です。
征韓論めぐり西郷と対立した大久保ですが、一方で日本、中国、朝鮮という東アジアの団結を目的とした団体を作ることを清の李鴻章と約束しており、1878年に海軍の中国通・曽根俊虎等を中心として「振亜社」を組織させます(同年大久保は暗殺されます)。同社はさらに外交官の渡辺洪基が中心となり「振亜会」として発展して行き、アジア主義政策を展開して行きますが(1880年に興亜会と改名)、基本的に上述したように上から目線の政策だったので、江華島事件~壬午事変~甲申事変と朝鮮独立運動が清の朝鮮派兵によって阻害されたりする内に、会内部も強硬派と穏健派に分裂。ついには1894年の日清戦争勃発により崩壊に至ります。

こうして崩壊した興亜会(崩壊当時の名は亜細亜協会)は1900年に東亜同文会というアジア主義団体に組織に吸収されますが、この会の会長が近衛篤麿でした。

元々、篤麿は興亜会に次ぐアジア主義団体として知られた東邦協会というアジア主義団体の副会長になったたんですが、その後、崩壊した興亜会を吸収して東亜同文会を結成。会長に納まります。

この人の軌跡を詳細に追う余裕は無いのですが、まあ公家らしからぬ馬力と公家らしい経済感覚の無さで、近衛家の財産を湯水の如く浪費し政治活動に勤しみます。

大アジア主義を啓蒙するための雑誌「東洋」を発刊し、無料で配布するわ、軍閥が跋扈し混乱状態だった中国に乗り込み大陸における社会道徳の機軸として浄土真宗を広めようとするわ、ロシアが南下の色を見せれば、玄洋社の頭山満等と対露同志会を結成し、全国を遊説し強硬論をぶつキャンペーンを展開するわと、まあ八面六臂?の大活躍でした。
ただ、そんな篤麿も病には勝てず、日露戦争が起こる1ヶ月前の1904年1月に中国で感染した伝染病が原因で42歳の若さで他界します。

西洋貴族由来のノブレス・オブリージュ思想の洗礼を受けた篤麿が西洋の脅威からアジアを守るべく国学由来の大アジア主義を振りかざし猪突猛進する様というのは実に不可思議な様ですが、これを先のルサンチマンという切り口で見て行くと納得できるのではないかなと思います。

そして日露戦争が始まるタイミングでの逝去というのも当時10代だった長男の文麿という人物を考える際の大きなファクターだったのではないかと思います。

何故ならロシアという江戸期以来の仮想敵国に対し、賠償金は取れないまでも勝利を収めることが出来たという事実は、この先日本は何処に向かえば良いのだろうかという漠然とした空虚感を注ぎ込みます。そのような折に、ヨーロッパから未だ嘗てない文字通り革命的な思想が輸入されて来ました。マルクスによる共産主義思想です。

当時の若者達は瞬く間にこの思想の虜になり、ついには1908年に国体尊重と綱紀粛正を図る詔書が発せられた程でした。後の世に言う戊申詔書ですが、この革命思想に取りこまれたのは、旧公家、旧大名家の出身で構成される華族の子弟達も例外ではありませんでした。

篤麿の思惑通りなのかどうかは不明ですが、華族階級にはノブレス・オブリージュ的思考の方々が多く、近衛文麿のブレーンの一人だった有馬頼寧は、現在競馬の有馬記念にその名を残しており、現代のスポーツ振興に果たした功績は多大なものがありますが、元々は摂津有馬氏の流れを汲む旧久留米藩主である伯爵家の出身です。
やはり近衛篤麿のようにヨーロッパを遊学の後、華族として国家に対してどうあるべきかを考えた有馬は、共産主義に感化され積極的に共産主義者等と交わり、部落問題や女子教育等の社会奉仕活動に精力を注ぎ、ついには有馬家の家計を傾けてしまうほどでした。この辺の熱の入れ具合といい経済感覚の無さといい、近衛篤麿に非常に似た印象を受けます。
また、最後の内大臣として東條英機を首班に指名した木戸幸一も侯爵・木戸孝允の孫として生まれ、近衛文麿と同じく京都大学で河上肇に私淑していました。

そして、こうした若い華族の子弟達を抜擢し天皇の藩屏としてまとめ上げたのが、その領袖とも言える西園寺公望です。

10年におよぶフランス留学でフランス流の民権思想に影響されていた西園寺公望も旧公家・清華家の徳大寺家の出ながら、被差別部落出身の女性と結婚しようとしたり、ヴェルサイユ会議で人種差別撤廃を訴えたりと一貫してリベラルを自負するという二面性を抱えていました。ただ、旧大名家の人々はともかくとして、旧公家の人々というのは意外に被差別民に対しては抵抗が無かったんじゃないかなと思うんですよね。というのはいずれも陰に陽に天皇に仕えるべき「畏れ敬われる存在」だったからですこの辺の話はちょっとまた民俗学的な話になってしまうので、詳述は避けます。

いずれにせよ、西園寺は腹心とも言える原田熊雄を使い、近衛文麿を中心として若き華族の子弟たちをまとめ上げ、天皇を藩閥~軍部と続く、ともすれば憲政の常道を逸脱しようとする勢力に対抗する勢力を作ろうと勤めました。

しかし、これまで述べたように、西園寺が抜擢した近衛文麿こそが西園寺の思惑を外れ開戦への端緒を作ってしまうのですが、そもそも近衛がどのような思想を持っていたのかを理解するのにうってつけの論文があります。

それが近衛27歳である1918年に、雑誌『日本及日本人』に発表された「米英本位の平和主義を排す」です。要約すると、

「一次大戦後に提唱された民主主義・平等主義とはまさに日本の国体における道徳観念の標榜するところであり何ら英米と違う所はないが、そもそも、英米の標榜する平和主義とは結局「(植民地や資源等を)持てる国」である自分達の利己主義に基づいており、第一次大戦を引き起こしたドイツも大概であったが、結局、ドイツも「持たざる国」であったがために、「持てる国」の利益を侵害すると見做され叩き潰された。日本も「持たざる国」であり、その境遇はドイツと非常に似ている。米英が今後もこのような利己主義的で欺瞞に満ちた平和主義を振りかざすのであれば、日本は真の平和主義・真の平等主義のために現状を打破する挙に出ざるを得なくなる。」

この論文は如何にも若き正義感に溢れた共産主義・社会主義的な理想論に彩られており、まさにこれまで述べたルサンチマン的発想から来ているのですが、この翌年にヴェルサイユで開かれたパリ講和会議の全権大使である西園寺に随行し、共に人種差別の撤廃を訴えています。

この論文は英語に訳され欧米でも紹介されたため、パリ講和会議の時には各国から「とんでもないのが全権大使の随行員に居る」と大騒ぎになり、西園寺もこんな論文を書くなと窘めたそうですが、近衛の基本的な思想はこの論文に立脚していると言えます。

しかし、この論文、卓見と言いますか、やはり西園寺が目をかけるだけあって、近衛という人は優秀だったんだと思いますが、日本の主張虚しく、パリ講和会議後のヴェルサイユ体制下でワイマール共和国となったドイツは米英中心の国際社会から徹底的に袋叩きにあい、それが国民のフラストレーションを招きナチス政権誕生へと繋がります。日本も正に同じような道を歩み太平洋戦争へと繋がって行くのです。

近衛の「真の平和主義・平等主義のために直接行動も辞さず」という強行姿勢、如何にも若い第二世代的な発想だと思います。やはり年長者のやり方は温い、と思ってしまうのでしょうね。戦後の新左翼の物の考え方もそうですが、エディプスコンプレックス的な階級闘争主義と言いますか、どうしても若い世代というのは如何ともしがたい現状への不満や閉塞感を打破しようと考え方が急進的になって行きます。そしてこうした強気な考え方と五摂家筆頭と言う血統が軍部や国民に歓呼を持って迎えられ、絶大な支持の下、45歳の若さで近衛内閣は組閣されて行きます。

ヴェルサイユ会議以降、近衛が論文で指摘した通り、ワシントン海軍軍縮条約→パリ不戦条約→ロンドン海軍軍縮条約と続き、米英主導の「持たざる国」への締め付けは強まる一方でした。そして軍部はそれに対する反発を強めて行き、関東軍は独断で「持てる国」を志向したことが満州事変以降の大陸進出へと繋がります。またこうした軍部の独断先行への防波堤として組織された筈の天皇の藩屏たる華族の子弟たちも、皆一様に「政党政治などという政党同士のいがみ合いなどをしている場合ではない。国家総動員体制でこの難局を打開しなくてはならない」という軍部と同一の思考に至ってしまうのです。これが「バスに乗り遅れるな」という標語に表れます。
当時、スターリンは5カ年計画を発表し着々と国力を増進させており、国家総動員体制こそが国力を高め米英主導の世界体制に対する世界の潮流であるとされたからです。こうした思いが第一次近衛内閣として結実するのですが、その近衛を内閣首班に推進したのが西園寺だったというのが何とも皮肉な結果となってしまいました。

西園寺も含め華族の子弟達というのは皆優秀だったのだと思いますが、ノブレス・オブリージュを心の底からから実践しようとする程、非常にセンシティブであったため共産主義という理想主義的な思想にのめり込んでしまいました。

最も象徴的なのが、1933年に起こった華族赤化事件です。

もうそのままの事件名なんですが、八条隆孟(27歳)、森俊守(24歳)、岩倉靖子(20歳)、亀井茲健(22歳)、松平定光(23歳)といった若い華族達が続々と治安維持法で逮捕されます。容疑は共産主義的な新聞を発行し同じ思想を持つ仲間で組織を作ったというものです。
名前を見れば一様に旧公家や旧大名の子弟達だというのが判りますが、岩倉靖子などはあの岩倉具視の曾孫です。しかも彼女は他の容疑者が反省文を書いてすぐに釈放されたにも関わらず、頑として自分の思いを曲げず、「説明もできぬこの心持を善い方に解釈して下さいませ」との遺書を残し、自殺しました。靖子は「人夫などが汗水たらして働いている姿を見て帰っては可哀そうだと涙ぐみ、同族や富豪のぜいたくぶりを見ては、どうして世の中に等差がひどいのか」と思い悩むような女性だったようです。

若い華族の政治家達は皆心から真面目に天皇の藩屏たろうとし、共産主義の理想的側面を実践することこそが国家の繁栄に繋がると考えました。そして軍部において、統制派は共産主義国家ソビエトの全体主義的統制経済体制こそが現状打破の近道だとしました。一方、皇道派は国学由来の日本人が持つ平等的価値観と農村出身であるという出自が共産主義由来のロマン主義的指向性と結び付き、先に引用した殖田俊吉の文書にある「最もプリミティブな復古主義者」となり昭和維新を叫びました。彼等を突き動かしたものは、いずれも国学から共産主義を貫くロマン主義、裏を返すとルサンチマンでした。

実はこうした状況を端的に表すような証言が残っています。

赤松克麿と同じく社会民衆党の幹部で共に三月事件等に関わった亀井貫一郎は、「永田の在世中、議会、政党、軍、政府の間で、合法あるいは非合法による近衛擁立運動についての覚書が作成され、軍内の味方はカウンター・クーデターを考えていた。だから右翼は右翼でクーデターを考えてもよい。どっちのクーデターが来ても近衛を押し出そうと、ここまで考えていたということが永田が殺された原因のひとつである」と述べています。

要するに近衛を担げば自分達の思いは遂げられる、何故なら、近衛はこうした同じ思想の華族の一団を率いていたからです。この時、もはや華族の子弟たちは天皇の藩屏たりえず、また天皇自身もこのことに気づいていなかったのではないのかと思います。華族の子弟達はなるほど優秀ではありました。しかし、共産主義者達の政治的側面を見抜けなかったロマン主義的なおぼっちゃんの集団でした。彼等はそこを衝かれたのです。そして、ゾルゲ事件が起き、側近としていた尾崎という共産党員に裏切られた近衛は、この時、国際社会において共産主義という思想がどういう存在なのかを初めて理解し、「近衛上奏文」においてこれを批判するのです。

近衛内閣以降の流れは冒頭に述べましたが、ここまで書いてきて思うことは日本という国は常にルサンチマンを抱えて来た国だということです。

太古より、強大な中国という文明国に怯えながら、頻繁に起こる地震、台風、火山の噴火といった自然災害に耐え続けて来ました。そして、日本人はそうした如何ともし難い強大な力に対して愚直に過ぎる程、クソ真面目にルサンチマンを乗り越えようとしてきました。これは今を以て変わらないのではないかと思っているのですが、しかし、そんな哀しくもクソ真面目なルサンチマン民族にとって、共産主義という思想は最も凄惨な劇薬ともいうべき思想でした。

クソ真面目であるという性質が必ずしも良いことではないのは、国学においては先の本居宣長や平田篤胤の考え方の変遷を見れば解りますし、自由民権運動の活動家が隣国を解放しようと上から目線になったり、共産主義においては未だにその幻想に取り憑かれ、おかしくなってしまった人々が多く存在しているのを鑑みても解ります。岩倉靖子のエピソードなどはもはや哀しさしか存在しません。日本人というのは太古よりこうした哀しさを抱えて生きてきた民族なのです。

そして、常に自分達のルールこそが正義であり、都合が悪くなると力で以ってねじ伏せれば良いと思っている欧米人に対して、馬鹿正直に「何故人種差別をするのか?」正面きって訴え、馬鹿正直に欧米人と対等たろうと「王道対覇道」などというスローガンを掲げ、その実同じような手法で「持てる国」になろうとしたり・・・明治後にそれまでの日本的な文化を投げ打ち、鹿鳴館を建てて欧米人の猿真似をして踊り耽ったりしたにも関わらず、こういうことを理解せずに欧米に挑み敗れ去った実に哀しい民族・・・これこそが日本なのです。それ故、戦後は強い国=アメリカに対して徹底的に媚びへつらうという姿勢に180度転換しました。この点についての良し悪しはこの曲の歌詞とは無関係なので詳述はしません。

アホほど長くなりましたが、こんなことをつらつら考えながら書いた歌詞です。

ほとんど歌詞の解説らしい解説をしていないのですが、歌詞の中のRedSunというのは共産主義の事です。アカって奴です。

 

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