Beyond the Crimson Ocean

昔、雑誌のインタビューで「歌詞はリスナーが好きなように解釈すれば良い」などとSKYCLADのマーティン・ウォルキーアーがのたまってて、「何だよカッケーな。そうだそうだ」などと思ったからという訳ではないのですが、あまり直截的ではなく抽象的な表現の曲が多いんですよね。それでも、一応、どの曲もテーマとかモチーフがありまして、「ああ、そうだったのね」程度に思って読んで貰えれば良いなと思っている次第です。

まずはアルバム冒頭を飾るインスト曲、“The Conflict”ですが、イントロのSEでも解る様に「戦い」とか「闘争」とかいう意味で、これはそのまま“The Sign of Six”というアルバム全体に共通したテーマになってるんですね。実にメタルですね。BOLT THROWERみたいですね。

インストなんで歌詞は無いんですけど、曲のイメージとしては東欧のイメージなんですよね。何となくなんですが、うら寂しい感じを出したくてチェロなんか入れたりして。まだ冷戦が続いていた頃に生まれた世代の偏見かもしれませんが。

で、“The Conflict”に続く2曲目の“Beyond The Crimson Ocean”です。

この曲の歌詞はある歴史的な出来事を題材にしています。

所謂、戦国時代、鹿児島に島津義弘さんって大名が居りまして、この人の家臣だった中馬大蔵允重方って人をテーマに詞を書きました。

「ちゅうまん おおくらのじょう しげかた」と読むんですが、誰やねんと。
まあ、そういう名前の人が居たんです。

この人、別に格別な武功を挙げたわけでも、名門の家柄でも何でも無い農民に毛が生えた程度の人なんですが、色々なエピソードが今の世に伝わってまして、また、それが一々面白いので、ずっとテーマに取り上げたいと思ってたんですよね。

1600年が関ヶ原の戦いの年だってのは、その分かり易過ぎる数字のインパクトで嫌でも記憶に残っていると思うんですが、この両軍合わせて20万にならんとする大戦の中、島津義弘さんは僅か1000人程度の兵しか動員出来ませんでした。

当時、島津氏の国力は55万石位あったんで、1万石当たり動員出来る兵数を定説通り300人とすると、まあ1万5000人位は動員出来た筈なんですが、地元鹿児島で内乱なんかも起こってまして、正規の動員が叶わなかったことから、大坂の島津屋敷に駐在していた数百の兵しか動員出来なかった。

ただ、遠い上方の地で天下分け目の大戦がまさに風雲急を告げんって状況だったのは本国にも届いてたみたいで、すわ殿さんの一大事!とばかりに義弘さんの直臣達が、我先にと徒士で上方に向かう訳です。その中にこの曲の主人公・中馬さんも居ました。

中馬さんは野良の最中だったんですが、武具を抱え血相を変えて走って来る同輩を見て訳を尋ねます。同輩は事情を話すのですが中馬さんは事態を飲み込むや、その同輩の武具を奪い取り、そのまま大坂まで走って行くのでした。憐れ武具を奪われた同輩はと言えば、代わりに中馬さんの家に武具を取りに帰ってから大坂に向かったそうです。何とも直情径行な薩摩隼人らしいエピソードです。

で、ようやく歌詞の話になるんですが、この鹿児島から長躯、大坂まで駆け抜ける様をサビの頭で表現しています。西日本の話なんでハイエストなマウンテンなんか無いんですが(近畿以西で一番高い山は愛媛県の石鎚山だそうです。全然通り道じゃないですね)、こないだ新幹線が通ったとは言え、現代でも鹿児島~大坂なんてやっぱ大変な訳で、当然そんな物の無い時代、しかも、今みたいに全国の地理的な感覚も無い時代に鎧櫃持って徒歩で行くってのはそりゃハイエストなマウンテンも超えようかという苦労なんじゃないかと思ってああいう詞にしました。まあ山陽道は走らずに瀬戸内海を船伝いで行ったんだと思うんですけどね。

さて、そんな単独合流組を含めても1000人前後の島津隊なんですが、よりによって石田三成の西軍に合流します。

島津家のオフィシャル史書では、事前に東軍の徳川家康から合力を頼まれてたので、家康の直臣である鳥居元忠の守る伏見城に入ろうとしたら、「聞いてない」と、にべも無く断られ、仕方なく西軍に付いた、ってなってますが、この話は江戸期に幕府に対して叛意無き旨を示すための作り話だという説もあります。

島津家が豊臣家に降伏したのは1587年で当時の当主だった義弘さんの兄・義久さんは頭を丸めて隠居します。で、弟の義弘さんが跡を継ぐ訳ですが、何せ時の権力者・豊臣秀吉の天下において、島津家を存続させて行かなくてならない訳で、権勢を傘に居丈高に太閤検地等を迫ってくる石田三成とその子分・安宅秀康にもヘコヘコしなくてはならない。これに薩摩隼人は怒り心頭・・・ってイメージだったんですが、実情としては、義弘さん自身は太閤検地のやり方を見て、「測量技術とかマジ近代的なんですけどwwwやっぱ都会のやり方は進んでるでごわすwww(薩摩弁)」などと普通に感心してたそうです。さっき、話の流れ上、居丈高なとか書きましたけど、実際はそうでもなく石田三成はどうしたら領内の石高をきっちり測量出来るかを丁寧に教えてたそうです。当時の鹿児島は地頭とか居たりして鎌倉時代と大して変わらない行政制度だったので、まあ隠し田とかいっぱいありましてね。島津の陪臣づれからしたら文字通りへそくりをあらかたひっぺ返されるので腸が煮えくり返る訳なんですが、そこは義弘さん、為政者として三成の行政テクニックに大いに感動した模様です。

こうしたことがあったので、その恩義から西軍に付いたのではないでしょうかね。そこに情勢の見通しの甘さがあったことは否定出来ないですが。
国許の薩摩では徳川家康率いる東軍に付こうという動きもあったようですが曲のテーマとは直接関係無いので割愛します。

ただ、関ヶ原の戦いの前哨戦であった墨俣城の戦いで義弘の甥であるドリフターズ豊久さんが置いてきぼりを食らったり、杭瀬川の戦勝に乗じて進言した夜襲策が退けられたり、挙句、東軍が関ヶ原を迂回し長躯大坂城を襲撃するとの噂に惑わされ、むざむざと大垣城を棄てて関ヶ原に陣取るとの戦術が採られたりしたので、いよいよ三成の戦術眼に疑問符が付き始め、このままでは「西軍は勝てない=お家取り潰し」との危機感を抱き始めます。

そこで義弘さんは東軍との本戦には積極的に参加しない方針を決めたのです。。。

運命の1600年9月15日。関ヶ原の戦い当日です。

メインテーマから外れるので詳述は避けますが、大体朝8時位でしょうか、東軍・福島正則隊と西軍・宇喜多秀家隊の小競り合いから戦端が開かれます。

序盤は西軍が優位でしたが、正午過ぎに松尾山で静観していた小早川秀秋隊約12,000の東軍への寝返りにより、傍観していた小川、赤座、脇坂、朽木諸隊も小早川隊に合流し、西軍の右翼に襲い掛かります。

これにより、右翼戦線を担っていた大谷、平塚、戸田隊は全滅。西軍右翼は完全に崩壊します。そして前線で戦っていた石田、小西、宇喜多などの諸隊も正面と右翼から挟撃され崩壊。それぞれ戦場を落ち延び、東軍大勝利となった次第です。

そんな中1000人に満たない島津隊は静観し続けます。

石田三成からの使者から早く戦いに参加してくれと督促が来ますが、もう西軍としては戦いに加担しないと決め込んでいるので、使者が馬から下りないのは無礼だの何のと言いがかりを付けて追い返します。

それでも東軍は攻めてくる訳で鉄砲で追い返したり小競り合いをしている内に、徐々に兵数を消耗して行きます。

気付けば西軍で戦場に残っているのは島津隊のみ。西軍の敗残兵を吸収し10万以上に膨れ上がった東軍に完全に包囲された形となります。

地理的な説明をしますと、石田隊本陣は関ヶ原西北にある伊吹山系笹尾山の麓に陣取っていました。そして島津隊は石田隊とは北国街道を挟んだ向い側に陣を構えています。
さらに島津隊から見て正面(東)には徳川家康が本陣を構える桃配山。そしてその右(南)側を伊勢街道が通っています。

崩壊した石田、小西、宇喜多といった西軍主力の武将達は当然自軍後方にある北国街道を通って戦線を離脱します。そりゃそうですよね。目の前は10万の敵だし。

しかし、義弘さんは正面横の伊勢街道からの戦線離脱を試みます。東軍10万 VS 島津軍100
0。100倍の敵に立ち向かう、これこそが後世に名高い「島津の退き口」です。

何故、伊勢街道なのか?義弘さんはここで大勝負に出ます。

行くも地獄、退くも地獄。ならば一発ぶちかましてやろう。全滅したらそれはそこまでよ、と。
ここまでの経緯で判るように鹿児島本国には2万近い島津軍本体が無傷の状態で残っています。
ここで一発家康に恐怖を与えておいておけば、後々の交渉が有利に進められようと言う物。かかって来るなら来やがれと。

関ヶ原の戦いというのは実質的には豊臣家と徳川家の覇権を賭けた戦いですが、表向きには石田三成と徳川家康が豊臣家に災いを為す君側の奸を除く、ということになっています。故に、西軍に付いたものの何もしていない義弘さん、ひいては島津家をわざわざ鹿児島にまで出張って潰しに懸かるというのは野心剥き出しの戦いとなってしまうので、家康としても中々手が下しにくい訳です。

まあ義弘さん的にももう66歳と高齢だし地理も判らないしで伊吹山に落ち延びたとしても無事離脱出来る自信無かったみたいですが、どうせならひと勝負掛けてやろう。「泣こかい飛ぼかい、泣こよかひっ飛べ」という薩摩隼人の気質を表した有名な言葉が浮かびますね。当時、この言葉があったかどうか判りませんが。

東軍的には、当然島津軍も北国街道から戦線離脱するものと考えていたので、突如鉄砲を猛射するや死兵と化した島津兵が家康本陣に向かって襲い掛かって来たので大混乱に陥ります。

島津隊は家康本陣の前に到達すると右折し伊勢街道方面に向かいますが、これを徳川家譜代筆頭、徳川四天王の本多忠勝と井伊直政、そして家康の四男・松平忠吉が追撃します。

島津隊も捨て奸(がまり)という、その場に座り込んで鉄砲で将兵を狙撃後に槍で突入するという文字通り捨て身の戦法で応戦。さらに甥の豊久や重臣・長寿院盛淳等が義弘さんの身代わりとなり戦死します。一方、井伊直政や松平忠吉もこの時に狙撃された銃創が元で後に命を落とすこととなります。

熾烈極まりない追撃戦となったわけですが、それでも小返しの五本槍と呼ばれる武将達の活躍もあり、義弘さんは戦線を無事離脱。さらに大坂で人質に取られていた奥さんも取り返し、大津城攻めに加わっていた立花宗茂と途中で合流し鹿児島に帰ることが出来ました。なお、元々1000人に満たない兵数だった島津隊ですが、この頃はもう数十人しか居なかったそうです。

かくして、戦後は義弘さんに思惑通り事が進み、西軍の大名で唯一本領を安堵されました。
(対馬の宗氏も西軍ながら本領を安堵されましたが、朝鮮との外交コネクションがあるという理由での安堵です)

この島津の退き口は、よく寡兵による中央突破だとかで美化されたりする訳で、この稿でもややカッコ良く書きましたが、実情はまあそこまでカッコ良い訳ではなく、東軍の外様大名共が北国街道へ逃れた総大将の石田三成を追っかけている間隙を縫ってのまさかの逆方面へ退却ってのが真実だったようです。戦の趨勢も決まっていたので現場に残っていた外様大名達は兵の消耗を避けるために結構道を譲ったりしています。ただ、徳川四天王始めとする譜代・親藩の大名としては親分が追い込まれたとあっては面目丸潰れなので、執拗に追いかけたって訳です。

いずれにせよ、この島津の退き口こそこの曲全体のテーマであり、主人公の中馬さんもこの島津の退き口をきっちり生き残ります。

その中馬さんの数あるエピソードの中で特に癒し系なのが、戦線離脱直後の話。

義弘さんは駕籠に乗って移動してたんですが、さすがの猛将も死地より脱した直後で憔悴しきり。
そこで殿様に体力を付けてもらおうと家臣の1人が残り僅かな干し肉を袋から取り出します。
ところが義弘さんの駕籠を担いでいた中馬さんがその肉を奪って食べてしまいます。

義弘さん含め一同は「いや・・おま・・あれ????」と目を丸くします。
肉を奪われた家臣は中馬さんを激しく咎めますが、中馬さんは平然とこう返します。
「殿さんを担ぐ俺等がへばったら誰が駕籠を担ぐんだ?だからまずは俺等が体力をつけるんだ」
これには義弘さんも呆れて苦笑いするしかなかったそうです。

ちなみにこの時代の鹿児島では豚肉を普通に食ってたそうで、それが薩摩隼人の剽悍さ剛健さの要因じゃないかとも言われています。明治後、日本に入ってきたイギリスのヨークシャー種と交配して今の鹿児島名産の黒豚が誕生します。

ようやく再び歌詞の話しになるんですが、Crimson Oceanとは文字通り血の海を表しています。
この曲では中馬さんを通して島津の退き口、関ヶ原の戦いにおける、戦場の苛烈さ、そして主君に対する忠節心みたいのを表現したかった次第です。WarとかLoyaltyとかメタルですよね。

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