Chaos and Marginality

この曲の歌詞は他の多くの曲のように何か歴史的な出来事をテーマにしたという曲ではありません。

曲のタイトルは「混沌と周縁」を意味します。

周縁とはマイノリティと同義語と思って良いと思います。要するにマジョリティから弾き出された少数の人々=弱者を表しており、これは人種、人格、思想、文化と様々な切り口において見出せる要素と言えますが、実はこれまでに解説して来た“Sign of Six”というアルバムの歌詞にはほぼこのテーマが通底しています。

Beyond The Crimson OceanやBullets Fallは戦国時代をテーマとした曲でしたが、いずれも島津家は薩摩という西の最果てに蟠踞した周縁の大名や運を味方に出来ずに敗れた者達が徳川家という強大な権力に立ち向かう内容でした。

なお、日本の政治は太古からの地縁や血縁の延長にあるものですが、豊臣秀吉がもてはやされるのは、地縁血縁というバックボーンの無さを己の才覚だけで切り拓いたからなのですが、彼自身もそうした地縁血縁の無さを自覚しており、旧姓の木下姓を乱発して無理矢理一族を増やしたり、尾張や近江といった自分の領地出身の若者を取り立てて身の回りを固めました。しかし、最後は三河の一土豪時代から一貫して強固な地縁血縁関係で結ばれた家臣団に支えられた徳川家康に滅ぼされました。現代の政治もこの地縁血縁の関係が続いているのではないかと思います。

そしてRoyal Code Resurrectedではまさに地理的にも人種的にも周縁としか言いようない日本、及び、日本人というマイノリティが帝国主義という時代の中で悲哀をまとい抗う様を明らかにしたつもりです。本当は山崎闇斎や浅見絅斎、栗山潜鋒あたりから書き起こせられれば良かったんですが・・・。

Amaber Moonのテーマとなったアイルランドなども地理的に日本と非常によく似た周縁の地です。特にアイルランドの文化的バックボーンであるケルト文化というのは、アイルランド以外では、今もイギリスのスコットランドやスペインのガリシア(ケルトと同義語であるゲールの土地という意味)に残っていますが、地図を見ればまるで重箱の隅のような地理関係にあることが一目瞭然であり、文字通り強大なパックスロマーナに追いやられた文字通り周縁の文化な訳です。ガリア戦記にある顔の刺青に首狩りといった実に野蛮な風習は現代の価値観から言えばマイノリティに分類されて然るべきと言えますが、しかし、それは飽くまでもマジョリティの勝手な認識です。

No EscapeやSky Highは背徳的な負のスパイラルに陥ってしまった人間の話でして、これは自分の責任だろと言われかねませんが、しかし、ある意味こういう負の欲望に勝てない人間の性質にもマイノリティには存在します。例えば、この世には死体しか愛せないという人も居る訳で、世間からは変態の一言で笑いものにするだけでしょう。そうした人々の悲哀を我々は中々理解することが出来ません。

しかし世を変革する混沌は常に周縁から起こるものです。

現在のフランス革命~アメリカ独立に受け継がれた民主主義、自由主義の精神は教会や封建制といった巨大な力によって抑圧され押しのけられていた周縁の人々の混沌の中から出発し、世界をひっくり返しました。しかし、今では逆にこうした思想こそが巨大な権力となってしまい思想の多様性を認めずイデオロギー闘争が繰り広げられる始末。現在のパックスロマーナ、パックスアメリカーナと呼ばれる所以です。またしても周縁には混沌が燻る結果となっています。

Innocenceは経済と情報こそが権力の源泉である現代における敗者の嘆きですが、周縁の民として長い間教会に迫害されてきたユダヤ人は本来蔑まれるべき職業であった金融業を逆手に取り、逆に世界の経済システムを変革してしまい、今ではInnocenceのような敗者を抑圧する側に立ってしまいました。

また、関ヶ原の戦いで周縁に追いやられた島津家や毛利家といった大名の土地から明治維新を起こす芽は胎動します。これも世を変革する混沌が周縁から起こった例たり得ます。

Watatsumiの歌詞解説で触れた沖浦和光さんは学生運動後、士農工商から外れた香具師やサンカ等の行商民や遊芸の民、被差別部落の民等に関する著作を多く発表し、喜田貞一から宮本常一、中山太郎、網野善彦、赤松啓介等に連なるいわゆる非常民の研究者となりましたが、彼が心を寄せた日本におけるマイノリティも、今現在、マイノリティのままなのか疑問を感じることがしばしあります。多くのメディアは、政府の施策等に対してことあるごとに「弱者を切り捨てか?」といった表現を多用しますが、第四の権力とも言われるメディアが代弁してくれるような存在が果たして弱者なのでしょうか?これはアメリカにおける黒人やインディアンの問題もそうですが、マイノリティの側に“正義”という免罪符が了解されてしまった場合、マイノリティとマジョリティの立場は入れ替わります。

このようにマジョリティとマイノリティは歴史という悠久の時の流れの中で常に揺れては返す振り子のように振幅を繰り替えします。そしてそれは周縁に追いやられた者たちと権力を握った者たちとの終わらない闘争です。まるでマルクス主義のようだと思うでしょうが違います。人類はマルクスが説く様に闘争の果てに共産主義社会を実現したりせずに、今後もこの揺り返しを続けるでしょう。何故なら、このマルクスの思想こそが人類の理想であるとした先達たちが過去の愚かな権力者たちと同じように権力を行使し、マイノリティを弾圧してしまったからです。教会は異端を弾圧しましたが、宗教を否定する共産主義は逆に宗教を弾圧しました。悲しいかな今のところ人類の歴史を紐解く限り、畢竟(ひっきょう)これの繰り返しと言うしかなく、そしておそらく今後も人類は同じ愚かな過ちを繰り返し続けるのだと思います。

ようやく歌詞の話になるのですが、マイノリティがマジョリティを凌駕する直前の混沌とした状況を歌詞に込めました。まあ平たく言うと革命前夜とでも言うと解り易いですね。この曲については、ある程度抽象的なままにしておきたいというのもあるのでテーマ以外の詳細の解説は避けますが、巨大な太陽と遠くで輝く小さな星、光と闇といった言葉でマジョリティとマイノリティといった二項対立を表現しています。

1番では単純に革命歌的な感じにしましたが、2番では展開を変え、光とは必ずしも正しいものではなく、闇にこそ温かさがあるなんて詞にすることで、何が正しく何が間違っているのか?人類は悩み迷いながら時を刻み歴史を積み重ねてゆきます。

サビは馴染み易いものにしたかったので如何にもジャーマンメタル的な歌メロと歌詞にしてみました。太陽と星という言葉のチョイスにはそうした意図も含まれています。

繰り返しになりますが、人間のやることはいつの世もあまり変わりません。そして今後も変わることは無いと思います。故に人は未来を見ようとする時、歴史を紐解くのですが、悲しいかな歴史の教訓を生かす術を人間はまだ見つけられないようです。

 

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